2007年6月【第10回】多様なイスラーム
ご無沙汰しています。また堅い話かも。
去年の夏、初めて中東に行った。一回の訪問で中東のすべてをわかることなど不可能だ。わかることは、彼らの多様性と複雑性。
多くのムスリム・ムスリマに会った。はじめは、みんな同じように思える。しかし、一緒にいるうちに一人一人が違う人間だ。
ある、ムスリムは言う。もしラマダン(断食月)中に日本に旅行に来ても、日本でも断食をする、と。あるムスリムはこういいった。もう5年近くお祈りはしていない、でも自分はムスリムだ、と。
お祈りや断食といったムスリム・ムスリマの生活の基本と思われているものですら、個々人によって違う。
ディスカッションの時、イスラームにカルトはいるのかとメンバーが尋ねた。その時、 スカーフをしていない女性が涙目で「イスラームをカルトなんていわないで」と語った。
見た目だけで判断することはむつかしい。何をもって信仰熱心とするのか。こっちの常識でかかると想定外なことがままある。
アラブでよく聞くフレーズ
「イスラームとテロリズムは違う」
「イスラーム原理主義(あえてこう訳す)とテロリズムは違う」
オマーンでもシリアでもこの言葉は聞いた。世界中のムスリム・ムスリマがこう語るだろう。
ただ現実、ほかのムスリム・ムスリマたちがどう思うかは別であるが、自爆攻撃する戦士たちは口々にイスラーム用語を口走るだろう。彼らもまた、ほかのムスリム・ムスリマたちがどう認識するかは別にして、神に帰依しているのだ(「イスラーム」とは「神に帰依すること」)
「イスラームは平和主義」だ、「イスラームはテロリズム」だ。ありとあらゆるイスラームを規定する言説が飛び交っている。あるものを人間の言葉を持って語りつくすことは可能であろうか。
「Aは必ずBである」そう語ってしまったとき、「BではないA」は居場所に苦しむだろう。
そのBという単語が肯定的であれ否定的であれ、その言説は暴力である。そして、その言説の対象を苦しめるだけでなく、話者自らも固定的な解釈という檻に閉じ込められてしまう。
一つのもとを決め付ける言説は、それがどんな内容であれ、実は過激派のアジと対して変わらないのではないだろうか。難しいことではあるが、新たなる他者と遭遇したときには、先入観を捨てて、心を空っぽにすべきなのだろう。もちろん、「イスラームは多様だ」というフレーズ自身が、そうではない可能性を閉じ込めてしまう危険な檻なのかもしれない。
(K.T 国際基督教大学2年)
